12期その7

ジェインが子どもを産んだ。
体重2900g 元気でよく笑う男の子。
名前はジェラルド。
ジェインが子どもを産んでいる間、家の中でヒューイがあれでもないこれでもないと考えた名前だ。
子どもを抱いて帰ってきたジェインに、ヒューイは何でもないことのように、顔色も変えずに淡々とその名前を提案したけれど、一睡もせずに決めた名前だということは、一緒に留守番していたリオとソウヤは知っている。
結局のところ、ジェインが不安に思っていたことは、全て杞憂だったのだろう、とソウヤは思う。
だって、彼女の言うような、元の世界に帰りたがっている、父親の自覚も何もない男が、あんなに必死でうろうろと家中を回りながら名前を考えるだろうか。

「ねえ、ドロシー。もうよだれでベトベトよ。新しいよだれ掛けあるかしら」
「はい!黄色いのまだあるます」
「あ、これ可愛いわよね。買ってくれたの?ありがとう」

などと、彼女たちが手にしているよだれ掛けも、ヒューイが作ったものだとは、ジェインは知らない。ソウヤもついこの間知ったのだが、この男はジェインが悩んでいる間、ジェインと話もせず、ただただ部屋でよだれ掛けやらおもちゃやらを作っていたらしい。
作ったヒューイ本人はというと、彼女らの話に顔色も変えず、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。背景に溶け込んでしまって、いるのかどうかわからない地味さが、彼の彼たる所以だが、もう少し自己主張してもいいのではないだろうか。
どうやら、ヒューイは悪気はないのだろうが、必要性を感じない限り前に出ない癖があるらしい。目立たずに、顔に出さずに、裏から手を回し、物事を進める術は、貴族のサポートをするのに最適だろう。ヒューイを拾ったというキャスケル老が、彼を重宝している理由もわかる。だが、その適性は、結婚生活を始めるにあたっては、適しているとは言い難かった。
ジェインもヒューイも、同じ空間にいても、目を合わせようともしない。
以前は、ケンカになれど、よく顔を合わせていたものだったが。


「ねえ、大家さん、天気もいいし、お散歩がてらピクニックに行こうと思うんだけど、大家さんもどうかしら」

と、ジェラルドを世話しながらのジェインの声が、自分にかけられているものだと気が付かなくて、ソウヤは一瞬戸惑った。

「え?えーっと、あー…」

ジェインもジェインだ。こういうときにヒューイに声を掛ければいいのに。
ヒューイはこちらをちらりとも見ないが、聞いているのだろう。彼の持っている新聞が、かさりと音をたてた。

「おれ、ちょっとすることあるんだ。ごめんね」
「そう、残念ね。リオは行くでしょ?」

振り向かれたリオは、きょとんと目をぱちくりさせたあと、あたりを見回して――ソウヤを見て、それからヒューイを見て――、ぽんと手を打った。

「ごめんねジェイン!ワタシも予定あるんだ!ちょっとね、えーっと、ソウヤくんのお手伝いするの!」

わざとらしいが、リオが空気を読んだことに驚く。
驚きすぎて、相槌を打つのが遅れてしまった。

「そ、そうそう。リオに頼んでたことがあってさ、な、リオ」
「うん!そ、そうなの!」
「へー…」

二人の会話を聞いたジェインは、残念そうな顔をした後、何やら納得したように「いつのまにそんな関係だったの…」などと呟いていたが、ソウヤとしてはお前が言うなと心から言いたい。

「二人が駄目なら仕方ないわね。ドロシーと二人でだったら、ピクニックよりお散歩って感じだし…」

せっかくいい天気なのになあ、とボヤくジェイン。
退院して少したったとはいえ、先日まで身重だったというのに元気なものだ。

「ちょっと疑問なんだけど…」

と、持っていた新聞をたたんで。
立ち上がったのは、先程から彼女の話題に全く上がってない男だ。

「なんで僕を除外してるんだ?」
「あら、いたの?気付かなかったわ」
「いたよ」

肩をすくめて、ヒューイはゆりかごで寝ているジェラルドを見た後、抱き上げようとして手を止めた。それから頬を掻いて、背後にいるドロシーに指示をする。
返事をしたドロシーは、そっとジェラルドを上手に抱いて、持ち上げた。ジェラルドはぐずる様子もなく、ドロシーの腕の中だ。
それを確認したヒューイは、まとめている手荷物を取って、それからぽかんとしているジェインに向き直った。

「荷物、これでいいか?」
「え?あ、うん。あ、ジェラルド、それは私が…」
「まだ君も身体が辛いだろ。あれに持たせればいい。乳母車代わりだ」
「…あれじゃないわよ、ドロシーよ。…ドロシー、お願いね」

すっかり定着した子守り人形の名前を繰り返して、ジェインが頬をふくらませるが、取り合わずにヒューイは部屋を出て行った。

「まったくもう…」

そのやりとりは、仲がいい、とは言えないのかもしれない。
ふたりとも、やっぱり意思は通じ合っていない。
だけど、一人でベッドの中にいたときのジェインより、よっぽどマシな顔をしている。
と、ソウヤが息をつくと、リオもそう思ったようで。

「?どうしたのよ」
「ふふ、なんでもないわ」

くすくすと笑う彼女ををジェインが訝しがると、ぶんぶんと首を振って、なんでもないと言いながら、やっぱりリオは嬉しそうだ。

「楽しんできてね!ジェイン」
「ただの散歩よ?リオにも今度付き合ってもらうんだから」
「ふふふ、おみやげ話、待ってるから」
「話すような事ないわよ」

からかうように言うリオに頬を膨らませて、支度を急いでいるジェイン。
そんな様子を見ながら、リオはしみじみと頷いている。

「ワタシね、ジェインのお話大好きなの。竜と友達になる話とか、魔神と一緒に戦うお話。お姫様の話でしょ。それから、金髪の王子様の話。ふふふ、これからもっと、ジェインからロマンスなお話が聞けるんだわ。楽しみ!」
「な、なによそれ…」
「ふふふ、いってらっしゃい!」

手を振るリオに、後ろ髪を引かれるように、ジェインは立ち止まって何かを言おうとしたが、首を振って、行ってくるわと片手を上げて、先に出たヒューイとドロシーの後を追った。




*****



「ま、待ってよ」

先を行くヒューイに声を上げると、振り向いたヒューイは足を止めた。
それから、何の文句を言うでもなく、歩幅をゆっくりとジェインに合わせるので、ジェインは何だか拍子抜けした気持ちで、彼の斜め後ろを歩く。

「っっあーぅっ」

突然上がった響く笑い声は、ジェインの愛する息子の声。
産まれたばかりの息子、ジェラルドは、よく笑う子だった。
よく笑い、あまり泣かない。すこし心配ではあるが、楽しそうなら、まあいいかともジェインは思っていた。
ジェラルド。その名をつけたのは、彼の父であるところのヒューイである。
ジェインがアティルト病院で子を産み、退院して家に帰ると、お帰りとおめでとうの言葉をリオがかける横で、ヒューイは一言、ジェラルドはどうだ?と言ったのだった。
どうだ?とは何かとジェインが問いただす前に、子どもの名前?ぴったり!とリオが相槌を打ち、どうかと尋ねられたため、ジェインも頷いたのだけど。

と、斜め前の男を見る。
ヒューイ・ワートン。
異世界から来た男。
ジェインの祖父に助けられて以来、祖父の秘書をしている、無口で地味な男だ。
家出するときに、祖父からボディガード代わりにと付けられたこの男は、目立たなくて地味で、あまり口も出さないので、都合がいいと思ったのだけど。一緒にいるにつれ、彼のいたる点が目につくようになった。
人当たりは良く、余計なことを話さないが、何を考えているかしれたものじゃないし、優しさは人付き合いの面倒臭ささの裏返しだし、気を使っている風でマイペース。利益のあることじゃないと動こうともしない。何が好きで何が嫌いかですらも表に出さないし、地味どころか生きてるのか死んでるのかもわからないし、大体やっぱり性格はとっても悪いと思う。
だけど。
なんやかんやで、そんな合わない性格の悪い男の子どもを産んでしまった。
何故と聞かれても困る。
リオの言うような、「ロマンス」なんてあるのかどうかもわからない。
愛を囁かれたこともないし、好かれているとも思えない。
大体、これからどうするかなんてわからないし、どうしたいかなんて、考えることもできなかった。
ただ

(名前が、ついたから、いいわ)

未だに子守人形の名をドロシーと呼ばない彼が、息子にジェラルドとつけたのだ。
それはちょっと、やっぱり驚きだ。
何も言わないし、明確な態度を表さない男だけど、子守り人形なんて連れて帰ってきたし、子どもに名前を付けたし、今だって、ジェインとジェラルドの荷物を抱えている。
ここまでされたら、ジェインだって、ひとつ納得せざるを得ない。
彼は、ジェラルドを歓迎している。
それがわかったから、もういい。

(いつまでいるのか分からない人だけど)

積極的にではないけれど、穏やかな気持ちで、ジェインはまあいいかと思った。

「?どうした。変な顔して」

と、突然止まったヒューイにつんのめりそうになって、ジェインは慌てて立ち止まった。

「変な顔ってもう…ん、…ここは??」

市場の脇を抜けて、川を越えて。
しばらく歩いてやってきたのは、見晴らしのいい丘だった。
大きな樹と、それを囲むように咲いている小さな花。
日差しは柔らかく、空気もどこか澄んでいて気持ちがいい。風がふわりとジェインの髪を撫で、慌ててジェインは髪を押さえた。

「今日は大きな戦の凱旋をやってるから、人がいないみたいだな」

いつもはちらほらいるんだけど、と言いながら、ヒューイは木陰にジェインを連れて、シートを引いて、座るように促した。

「都合が良かった。あまり人が多いのは好きじゃない」
「マスター!おべんと!持ってますおべんとにぎり!」
「…ああ、いただくよ」

ジェインの隣に腰を下ろすヒューイを確認して、ドロシーが騒ぐ。
ジェインはドロシーからジェラルドを受け取って、その重さをぎゅっと胸に抱きしめた。

「あーっぅ」

ジェインの金髪をぎゅっと握りしめるジェラルド。
引っ張られて痛いのに、ジェラルドがにこにこ笑うものだから、ついつられて笑ってしまう。

「ジェラルド、そろそろ眠いでしょう?ねーんねん、ね」
「…僕もいいか?」

ゆらゆらとジェインを抱きかかえて揺らしていると、伸びてきた手はヒューイのものだ。
予想外だったので戸惑ってしまったが、ジェラルドを落とすわけにはいかないので、戸惑いながらぎゅっと抱きしめて、少し諮詢した後、
「難しいわよ」
「努力する」
という安心できそうにないやりとりをこえて、ジェインはそっと、赤ん坊をヒューイに渡した。

「うーあぅ…」
「あー、泣いちゃう?」
「…泣かないよ。たぶん」

顔をしかめるジェラルドに慌てつつ、ヒューイは憮然と眉を曲げつつも、その両腕を揺らして、彼なりにあやそうと苦戦しているようだった。

「これは、…ドロシーからあとで特訓受けないとだわね…」
「うん、…努力する」

あまりにも様になっていない抱き方にふと呟くと、返ってきた真顔のその返事は、あまりにも躊躇がなくて、ジェインはなんだか不思議な感覚を覚えた。

(…バカみたい)

こんな太陽の日差しをゆっくりと浴びて、まるで家族みたいで。
特訓だなんて、まるで未来があるみたいで。
ずっと、続くみたいに言って。

「…やっぱり、特訓なんて、しなくていいわよ」
「なんで?」

なんでと問われても。
途方に暮れたいのはジェインの方だ。
せっかく割り切れたというのに、ここにいるつもりもないくせに、まるで傷つけたみたいなその言葉は、今のジェインにとっては残酷すぎる。

「意味ないじゃない」
「失礼だな。僕は、そんなに不器用じゃないぞ」
「ええ、知ってるわよ。貴方が器用なことくらい」

器用すぎると思う。
子どもができて慌てるばかりか、子守り人形なんて拾ってきて用意周到。名前なんてつけるし、子どもとの時間を楽しんでるみたいだし、でもこの男は、ずっとここにいるつもりはないのだ。
いつか離れるつもりなら、最初から―――

(あれ?)

「…まあ、少なくとも、僕は君よりは器用だとは思うけど。君ほど鈍くもないし。」

子どもを抱きかかえてあやしながら、ヒューイはどうしようもなく呆れたような、怒っているような、それでいて全然怖くない顔を一瞬見せた後、ふう、と息をついた。
それから、ジェラルドをドロシーに預けて、ドロシーの差し出すおにぎりを受け取る。
それを一口食べて、普通に美味くてびっくりした、なんてドロシーに言って、もう一つのおにぎりをジェインに差し出して。
ジェインはそれを受け取って、確かに美味しいなんて相槌を打つ。
その姿を見ていると、急に胸がきゅっと音を立てた。

(……あれ?)

胸の内に浮かんだ疑問をじっくり吟味する。
おにぎりは美味しい。
日差しは暖かくて。
ジェラルドはとてもかわいい。
隣にはヒューイがいて、子どもの抱き方を特訓するなんて言って。
まるで幸せな家族みたいなことを言って。
未来を期待させるようなことを言って。

(そんなことないのにって)

残酷だと思った。
帰りたいと思ってるくせにと。
それなら、最初からああいうことをしなければいいのに。
優しいふりなんてしなければいいのに。

(でもそれって、もしかして)

「…私って、鈍いのかしら」
「何をいまさら」

残酷だと傷つくのは、期待しているからだ。
何を期待しているかって、ヒューイと、こんな風に一緒にいること。未来をともに築くこと。
こんな簡単なことに、ジェインは初めて気が付いた。
なぜ、そんな未来を期待してるかというと、それは――

(私はたぶん)

(そう、たぶん、この人が好きなんだわ。私)

子どもまで作っておいて今更――と、自ら思うが、はっきり自覚したのは初めてだった。
産む前も、産んだ後も、頑なに、それを考えないようにしていた。
【結婚】なんて、生まれた時から、貴族の道具のひとつだとしか思ってなくて。それの外で出来てしまった子どもに、ジェインはどうやって生きていこうと、将来を考え、覚悟はしていたけれど。
それ以前の何か、その大切なものを、考えたことがなかった。
傷ついたのも、期待したのも、好きだからだと思えばしっくりくる。

(そっか、これが…)

「ほんと鈍いわね私…」
「僕がどうしてここに来たかも気づいてないくらいだしね」
「?」

きょとんと振り向くと、ヒューイが笑っていた。
優しく、微笑んでこちらを見ている。
思ったよりも距離が近くて、手が当たりそうだ。
それに気が付いて、ジェインは一歩体を引いた。
追うように、ヒューイの大きな手が重なる。
どきりと、心臓が生まれて初めて動いたみたいな、体中に激しくて、それでいてやわらかい衝撃がジェインを包んだ。
なんだか体温が一度上がって、熱いような沸騰しそうな、そわそわした感じ。
改めて意識するとなんだか―――

「ま、待って、ちょっと。ちょっとストップ」
「なに?」
「や、あのね、ジェラルドもそろそろぐずるだろうし」
「ドロシーが寝かしつけてくれてる」
「そ、そう、ドロシーもいるし」
「いるね。問題ない」
「あのね、私、なんかちょっと体調おかしいみた―――」

体温が、もう3度は上がったみたいだ。
唇が熱い。
繋がって、離れて、振れて、繋がって。
くらくらと目が回りそうだ。
力が入らなくて、縋るようにヒューイの腕を握ると、ようやくヒューイは顔を上げて、それからそっと、ジェインの髪を掬った。

「君は鈍いから、これでもわからないよね」
「…わからないわよ」
「僕のモットーは、無言実行なんだけど」
「唐突すぎて、いつもわかんない」

ぐるぐると、ジェインの髪を手の中で弄って遊んでいたヒューイは、まるで意外だとでもいうように、きょとんと首をかしげて。

「唐突、かなあ。そうか…」
「そうよ」
「難しいもんだな」

そんな弱ったような顔を見て、ようやく、ジェインはヒューイを知った。
今まで何を見ていたんだろうか。
なんにも全然見ていなかった。
見ようとしていなかったのもあるけれど。

「…人に興味がなくて、性格が悪くて、人の心が薄い」
「?」
「君が言ったことだよ。秘密主義者で地味だっけ?破壊衝動があるとかなんかめちゃくちゃ言われた」
「い、言ったかしら…」

言ったかもしれない。
思い出すのは、初めてヒューイに逢ったときのこと。
祖父から、家出するならお供が必要だと紹介された男は、口数も少ない地味な男。気が弱いわけでもなさそうなのに、文句ひとつ言わないで、一体何を考えているのか不気味に思っていたものだった。
それから、ある日、自分の事は何一つも言わない彼が珍しく口にしたのは、彼の故郷の食べ物の話。ハムトーストという食べ物を、ジェインは聞いたことが無くて、わがまま言ってせがんだのだけど。その食べ方を聞いてものらりくらりとかわすヒューイに、何だか悲しくなったのを覚えている。
だから、その時に、性格が悪いだのなんだのを言った覚えは確かにあった。

「それから、生きるための導も、守るための理も、僕には何もないと君は言った」

何のために生きて、何を守るのか。
大切なものや、拘り。自分を自分たらしめるもの。
譲れない何か。

「確かに、僕には何もない。ワートンの家を継ぐこともどうでもよかったし、この世界に流されても、正直、何でもよかった。君のお祖父さんに助けてもらって、恩義は感じてるから、まあ、利用されて…それでも別に何でもよかった。ずっとそうだったから、これからもそうで、別に構わなかった」

ヒューイの希薄さは、彼自身が非物質的なものを何も持っていないことに由来している。
野望もなく、望みもなく、希望もなく、それでいて絶望もしない。
それは、彼が生きてきた人生、何不自由なく、与えられるがまま富を享受し、責任を受け入れてきたからだろう。ヒューイの世界がどういうものかは知らないが、それは、末端とはいえ、貴族に生まれたジェインにもなんとなくわかった。そして彼には、ジェインと違って、リオのような共に泣いて、喜んでくれる友人はいない。
かといって、ジェインの父達のような貴族のように権威や家に対する執着もない。
それをヒューイは是として受け入れていた。
受け入れながら、その反面、全てが壊れてもどうでもいいのだと。

『ほんとは、全部ぶち壊したいと思ってるんだわ』

そう指摘したジェインは、きっと正しい。

「うん、正しい。あのときは腹がたったけど――ああ、正直、腹が立つってのも初めてだったな。だけど」
「?」
「腹が立ったり、どう思ってるか気になったり、心配したり、何かできることはないかって考えたり」

よだれ掛けもおもちゃも初めて作ったよ。
と、そこまで言われて、ジェインはようやく、彼が何を言いたいのかを察した。

「…鈍い君も、ここまで言ったら通じた?」
「……い、今までのでわかるわけないじゃない」

彼が言いたいこと。
それは、ジェインが先ほど気が付いたことと同じこと。
慌てるジェインに、ヒューイはくっくと口の中で笑って、それから、今までにない、優しい言葉で口にした。

「きっと、僕の生きる導も、守るための理も、全部君だよジェイン」

これから、生きるための道標。守るための理由。

ヒューイに何もないのが、見ていてジェインには悲しかった。
いつか足を踏み外しそうで、それすらもどうでもいいと思っていそうなヒューイ。
だから、きっといつか彼は消えてしまうだろうと、ジェインは思っていた。
執着がない彼を好きになったら、消えてしまう彼を好きになったら、ジェインはきっと辛い思いをすると、そうどこかで悟っていたのだけど。

(…いいのかしら)

ルールなんて、決まりなんて、理なんて、どうでも良いと希薄だったヒューイを、繋ぎ止める楔になっても、いいのだろうか。
それを認めたヒューイを、とても嬉しく、それと同時に恐ろしさを感じる。

(このまま…)

ヒューイを留めて。

(私は、彼を、幸せにする覚悟を持たなければならないんだわ)

唐突に、ジェインは気がついた。
何にも執着のなかった彼の、楔となる覚悟を。
それから、それでよかったと、彼を幸せにする覚悟を。
生半可な気持ちではなく、受け止めて、自覚しなければならない。

(怖い、けど…)

それは容易くはない。
そんな予感がした。
ヒューイには、まだジェインに見せていないものが、きっとある。
彼と共に行くのは、それと向かい合うことに他ならない。

「だからジェイン、僕と………」



と。

ジェインに真正面から言葉を紡いでいたヒューイの声が、そこで止まった。
言葉を止めて、視線も、ジェインから離し、辺りを見回している。

「ど、どうしたの?」

訊ねるジェインに、人差し指を自らの口に当てて沈黙を示唆。
合わせて口を閉じると、そこに、それまでにない音の世界が――

「え…」

音がない。というのは、先ほどまであった鳥の囀りもなく、風の音も消えて、草葉の擦れ合う音もないということで。
違和感だけが肥大する沈黙の丘で、ジェインはヒューイの顔を見る。
ヒューイは、慌てず騒がず、ただ真剣な顔で頷いて、

「ドロシー、状況は?」
「危機的状況にはありませんことを保証が微妙。空間に微妙たる異物の要素を感知が微々」
「…恐らく危険はないけど、空間に異物の存在を多少感知ってことか?」
「マスターぴんぽん。恐らく、黄金の門が開いたと思われます」
「…そうか」

ヒューイは笑っていた。
先ほどまでの優しい笑顔とは少し違う、楽しそうな顔。
おもちゃを前にした、子どもみたいに。

「ヒューイ?」
「ごめんジェイン。話したいこと、まだあるんだけど、僕、ちょっと見たいものがあって。すぐ帰ってくるよ」

嫌な予感がした。
突然のものではない。ずっと、ジェインにはわかっていた予感。
ヒューイが何処かに消えてしまう、離れてしまう、帰ってしまうという確信はずっとあった。
黄昏の聖域がどんなに危険なのか知っていても、彼は躊躇わずに行っていた。子どもが出来てもそれは変わらず。何度も足を踏み入れていて、そこまでして彼は元の世界に帰りたいのだろうと、ジェインも思っていたのだけど――

「そんなに、帰りたいの?」
「ん?」

心を通わせても、それは変わらないのだろうか。
門が今開いているのが事実なら、今、彼は帰る最大のチャンスなのかもしれない。
でも、ジェインがいて、ジェラルドもいて、リオもいる、この世界では、本当に駄目なのだろうか。
それだけじゃ足りないのだろうか。
選んでもらえないのだろうか。

「ねえ、ヒューイ」

本当に帰りたいのなら、快く送り出してやりたい。
そんなふうには、もうジェインは思えなかった。
怖がってる場合ではない。
ジェインは、彼を縛る楔になりたい。
引き止めるだけの、力が欲しかった。

「そんな顔しないでジェイン。僕は、別に元の世界に帰りたいんじゃないんだ。ただ、あの聖域は…」

強張るジェインを落ち着かせるように、微笑んでヒューイはジェインの手を取った。

「あの聖域は、リオのディーラの力にも関係しているみたいだから、調べてみたい。君も、リオが狙われた理由、きちんと知りたいだろう」

突如出たリオの名前にはっとする。
リオ・ディーラ。
ジェインの親友。
幼い頃に襲われ、逃げ延びた彼女に何が起こったのかは察することができたが、なぜ襲われたのかは、ジェインも詳しくは知らない。
ただ、彼女を引き取った祖父も父も、リオを手放すことだけは絶対になかった。
ジェインが幼いころからずっと、キャスケル家に匿われたリオは、ジェインと同じように育てられていた。
同じように、というのも少し違うかもしれない。
ジェインが何か悪戯をして怒られることがあっても、リオは怒られることはなかったし、それはリオは悪戯なんてしなかったからだと思っていたが、どこか腫れ物に触るような扱いだったことも確かだ。
父も祖父も、リオに優しくて、彼女を不自由なくそれはそれは大事に育てあげた。
彼女がディーラだから。彼女はキャスケル家の切り札だということは、ジェインも知っている。
だけど、ディーラとは何なのか。彼女はなぜ襲われたのか。
そんな大事なことを、ジェインは考えたことがなかった。
ずっとずっと、当然のように思っていた。彼女は大事な存在。鳥かごの中の鳥。キャスケル家の切り札。
だけど、だとしたら、なぜ祖父は、ジェインがリオを連れ出すことを許可したのか、それが疑問だ。

「…ヒューイ、私も…」

知りたいと。
そう口に出そうとしたジェインの言葉は、最後まで口にすることができなかった。

突然。

それはあまりにも突然だった。
想定外で、予想もしていない。
まず感知したのは、ぶつんと、何かが切れた気配。

「マスター。転移です。歪み。門です。来ます。」

それから、ぐるりと視界が回る。
ドロシーが何か冷静に口にしたのだが、何を言っているのか理解することは出来なかった。
ジェインが出来たのは、繋がれたヒューイの手を、しっかりと握ることだけ。
その肩を抱きかかえるようにしてヒューイが支える。
耳鳴りがした。
体がぶれる。
一体何が起きたのかわからなくて、どくどくと鳴る心臓と、支えるヒューイの存在だけが確かで。

「マスター。転移終了。欠員ありません」

ジェインが我に返って、一番に思い出したのは、我が子の存在だった。

「ジェラルド!!」

ドロシーの胸に抱かれる我が子を確認し、胸を撫で下ろす。

一体、何が起こったのか。
そこまで思考するのには、少し時間が必要だった。
でも、本当はわかっていた。
何が起こったかなんて、すぐにわかった。知覚するよりも早く、その事実を悟る。

だってもう、そこは丘ではなかった。
木々も、草も、風もない。
灰色の空と、灰色の建物。カビた匂い。

「……聖域には行かなかったんだがな…」
「ディーラの作用を感知。あり得る事態」
「…まあ、門が開いたら、転移が起こるのは聖域に限らないって例もあったっけ」

ヒューイとドロシーが何を言っているのかもわからない。
わかっているのは…

「ここ…どこ…」

灰色の空の下で、あたりを見回しながら、痛烈にジェインはわかっていた。
ここが、ブリアティルトではないこと。
どこか遠い遠い世界の国だということ。

それから、もう一つ、ヒューイの顔を見て悟る。

「ごめんジェイン」

目を伏せて、頭を下げて。
ヒューイはすまないともう一度謝って、ここが、ヒューイの生まれた世界であることを告げた。
何に対して謝ったのかは明白だ。
この世界に、黄金の門も、聖域もない。
だからもう、ブリアティルトに帰れる術を、彼は知らない。
そう、彼は言わなかったけれど、彼の顔はそう告げていた。
それから、そのことを言う代わりに、ヒューイは真剣な顔で言った。

「…こんな所で急に言うつもりはなかったんだけど…」

ぐっと、握りしめてくる手が痛い。
それだけが、この場所も、彼の決意も、現実なのだとジェインに告げていた。

「僕と、結婚して欲しい。ジェイン」

全然知らない地で。
戸惑いで崩れ落ちそうなジェインを、ヒューイは繋ぎ止めるみたいに言った。
ジェインの答えはもう決まっていたけれど。
答えることなんて出来るはずがなくて、ただ、黙ってぎゅっと、彼の手を握り続けていた。











謎の失踪をしていたワートン財閥御曹司、ヒューイ・ワートンが、ある冬の日に、妻と息子を連れて帰ってきたことは、とある地方を揺るがすニュースになった。
ヒューイ・ワートンは、かつての実行力・決定力に欠けると言われていた姿なんてなかったみたいに、すぐさま、ワートン財閥の不正を摘発、先代総帥を追放し、歴代で一番若い総帥の地位を手にすることになった。それから、瞬く間に街の顔から国の顔になったワートン財閥は、ライバル企業を次々と傘下に収め、表の顔だけでなく、やがて裏社会にも通じ、ワートン財閥という名前には、様々な意味が込められるようになる。
その表裏、四方八方に手を広げるワートン財閥だが、その真意を明らかにしたことはない。
数年前、ワートン総帥の妻、ジェインが若くして亡くなって後、長男であるジェラルド、次男のジャラヒの息子たちが公の場に顔を見せるようになっていたが、最近は一家が顔を見せることは少なくなってきている。
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